エピローグ#08  From 水の都 to花の都

いつもより少し早起きして街に出た。
まだ観光客に荒されていない新雪のような
空気が心地いい。

 

ヴェネチア、午前7時

昨日買ったバポレット(水上バス)の24時間券がまだ使えるので
運河をたゆたうことにする。
目的地は決めず、来た船に乗り、気に入った場所で降りる。
肩の力を抜いたエコな旅がいい。
甲板に座ると少し風が冷たかったが、
朝日に向かって走っていくのが気持ちよかった。

ヴェネチア、今度は冬に来て朝霧の街を見てみたい。

 

 

花の都へ

宿に戻り朝食を済ませ、荷物をまとめた。
そろそろこの旅も終点に近づいている。
今日は水の都から花の都「フィレンツェ」に向かう。
フィレンツェ行きのチケットを買うため、駅の長い列に並んだ。

■ヴェネチア→フィレンツェ
(所要時間:2時間/運賃:40ユーロ ※約5500円)

またしてもユーロスターを買ってしまった。
各駅停車なら料金は3分の1で済むのに
窓口で目的地を告げると迷わず
ユーロスターのチケットを売ってくるから
そのまま受け取ってしまう…。
新幹線ばりに早くて快適だから病み付きになるよ。

窓際に座り、カバンから本を取り出す。
大崎善生『ロックンロール』。
パリを舞台に繰り広げられる淡い恋愛小説。
彼の作品の主人公はたいてい40歳で、仕事は編集業。
登場人物はみな影があって、少し心が壊れている。
そんなところに共感を覚えるからだろうか
彼の描く世界にすんなりと溶け込んでいける。
スラスラ読めてしまうので残りページを気にしながら
1行1行大切に文字を追う。
なんだか茶摘をしているような感覚だ。

ときおり窓の外、トスカーナの景色に目をやり
どこまでもつづくぶどう畑を写真に収める。
物語と自分を重ね合わせ、ため息を1つこぼす。
いくつもの駅を通過した。
物語もまた終点に向かってゆっくりと加速していく。
そしてフィレンツェに到着する少し前に
ほんのりと胸を痛めながら最後のページをめくった。
意識の対岸に流れ続ける、
ユーロスターの車輪の歌を聴きながら――。

 

フィレンツェ

そこは花の都だった。
「フィレンツェ」
なんだか気取って囁きたくなる街の名前。
名前に負けないくらい街は輝いていて
今もなおルネッサンスの華やかな空気が
立ち込めているようだ。
幾多の芸術家や詩人がこの街を愛したことだろう。
小説は書いたことがないが、
もし恋愛小説を書くならこの街を舞台にしたい。

ドゥオーモは夏の太陽に煌いていた。
アルノ川に架かるヴェッキオ橋は古めかしくて
中世の香りが残っていた。
街角には絵描きたちがパレットを滲ませ、
キャンバスの街に色を重ねていた。
ヴェネチアとはまた違った美しさを持つこの街に
気分は軽やかになり、
心が優しくほぐれていくのが判った。

旅は人を優しくする。

イタリアの昼は長い。
午後8時を過ぎても夕日はまだ訪れない。
それでも旅の1日は足早に過ぎていく。
こうして今日の物語をベッドの上で綴り、
物語の最後を指折り数えてみる。

また旅が終わろうとしている。
また少しだけ胸が疼いた。

 

旅のカケラ/slideshow

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