悲しみは雪のように

キリスト生誕から2008年、
まだ悲しみは消えていなかった…。

 

ヴィア・ドロローサ

エルサレムの旧市街には
「ヴィア・ドロローサ」と呼ばれる道がある。
ラテン語で“悲しみの道”。
この道は、イエスがピラトの裁判で有罪になり、
十字架を背負って歩いたゴルゴタへの道で、
第1留の「ピラトの官邸」から
ゴルゴタの丘がある聖墳墓教会まで14留ある。
黙想しながら、あるいは賛美歌を合唱しながら、
イエスの歩んだ道をたどる人たちの姿が絶えない。

「我が神、我が神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか」
そう声高く叫んで息をひきとったイエス。
(マルコ伝より)

 

十字架の重み

悲しみの道は旧市街の真ん中にあり、
各留はスークに埋もれていたり、
路地にひっそりとあったりと、
なかなか見つけにくいものだった。
それでも祈りを捧げる人たちが次々と
歩いてくるので、彼らの後につづき
1つ1つ丁寧に見て回った。

鞭打ちの教会やイエスが十字架の重みに耐えかねて
つまずいた場所、涙する娘たちに
「わたしのためではなく、
自分や自分のこどももために泣きなさい」
と、諭した場所など、
当時の情景を思い浮かべながら、
そっと時を重ねてみた。

 

ゴルゴタの丘へ

その歩みはやがてゴルゴタの丘へ。
そこには「聖墳墓教会」が建っている。
ここはキリストの墓と
十字架の破片を見つけた場所であり、
“世界の中心”と呼ばれる石の盃があった。

セカチュウ?
「世界の中心で“哀”をさけぶ」
そっと黙祷を捧げよう。

聖墳墓教会の中にあるキリストの墓は、
1度に5人しか入れないため、
1時間近く並ぶことになった。
なかなか進まない列にもイライラすることもなく、
穏やかな心でいられたのは不思議だった。

周囲を見渡すと、涙を拭う姿があり、
その思いの強さに、人の優しさに心を打たれた。

スークの喧騒に、教会の人ごみに
もまれながらも心は静かだった。
キリストの身に起こったできごとも、
ガイドブックをなぞりながらこの道を歩き、
ほんの少しだけ垣間見ることができた。
悲しみというよりは、
慈しみに似た感情を抱きながら
価値のある時間を過ごせたと思う。

 

悲しみの道は、希望の道

宿に戻り、みんなで夕食を作り、
食後の散歩に出かけた。
オリーブ山から見渡せる夜景は
特別キレイだった。

心が穏やかになる場所、エルサレム。
もっとここにいたい、
この旅ではじめて味わう感情だった。

先へ先へと急ぎ、
明日への期待がこの旅を、この足を
突き動かしていた。でも、
その足を止めることは恐くない。
その時間を止めることも恐くない。
未来は道の先にあるものだと思っていたけど、
立ち止まっているここにもあり、
後ろを振り返ってみれば、ほらそこにも。

悲しみの道は、希望の道。
イエスが残した過去の道には
悲しみを越えた
未来がいっぱい敷き詰められている。

最後にこの日記のタイトルの意味。
悲しみが雪のように積もっても
やがてその雪はとけ、新しい道が現れる。
ハマショーもきっと
そんな意味を歌ったんじゃないかな?

 

旅のカケラ/slideshow

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